杨: 所有的哲学就其立足于经验的根据上而言可以称作经验性的;而就其只从先天的原则出发阐明其学说而言,可称做纯粹的哲学。后者,如果它纯然是形式的,就叫做逻辑学;而如果它限于知性的那些确定对象上,就叫做形而上学。

中山:「経験的な学と純粋な学という観点からの哲学の分類」
経験的なものを土台とするすべての哲学は、経験的な哲学と呼ぶことができる。これにたいしてアプリオリな原理だけに基づいてその学の内容を展開する哲学は、純粋な哲学と呼ぶことができる。この純粋な哲学は、それがたんに形式的な学である場合には、論理学と呼ばれるし、知性の特定の対象を考察する場合には、形而上学とよばれる。

Kant: Man kann alle Philosophie, so fern sie sich auf Gründe der Erfahrung fußt, empirische, die aber, so lediglich aus Prinzipien a priori ihre Lehren vorträgt, reine Philosophie nennen. Die letztere, wenn sie bloß formal ist, heißt Logik; ist sie aber auf bestimmte Gegenstände des Verstandes eingeschränkt, so heißt sie Metaphysik.

评: 继承前文,对哲学自身的区分。这一部分两人翻译得差不多。杨云飞的翻译里区分了“经验性”(empirische)和“经验”(der Erfahrung)的概念,在中山元的翻译里分别是“経験的”和“経験”。二者在各自语言的语境下含义有微妙的不同。

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杨: 以这种方式就产生了一个双重的形而上学的理念,一种是自然形而上学,一种是道德形而上学。因而物理学将有其经验性的部分,但也将有其合理性的部分;伦理学同样如此;不过伦理学的经验性的部分在这里将有可能特别地被叫做实践人类学,而合理性的部分有可能被严格地叫做道德学。

中山: 「形而上学の分類」
このようにして二種類の形而上学の理念が誕生するーー自然の形而上学と道徳ジッテの形而上学である。自然哲学には、経験的な部分だけでなく、合理的な部分も含まれるだろう。倫理学エーティックについても同じことが言える。ただし経験的な倫理学はとくに実践的な人間学と呼ぶことができるだろうし、合理的な倫理学はほんらいの意味での道徳モラール(哲学)と呼ぶことができるだろう。

Kant: Auf solche Weise entspringt die Idee einer zwiefachen Metaphysik, einer Metaphysik der Natur und einer Metaphysik der Sitten. Die Physik wird also ihren empirischen, aber auch einen rationalen Teil haben; die Ethik gleichfalls; wiewohl hier der empirische Teil besonders praktische Anthropologie, der rationaleaber eigentlich Moral heißen könnte.

评: 中山元用了过多的だろう。这里只是冰山一角,在后面的部分里,中山元不知为何大量使用だろう。有意思的是,二位译者都琢磨出康德原意的不确定性,并在各自的译文中将这种语境给额外凸显出来。即使康德原文只用了一次könnte,杨云飞也使用了两次“有可能”,中山元则使用了三次だろう。这种有意强调原文含义模棱两可的译法似乎并不是康德的原意。

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一切行当、手工业、技艺都由于劳动分工而获益,亦即不是一个人什么都做,而是每个人把自己限定在某件在操作方式上与别的工作有明显不同的工作上,以便能最完善和更轻松地完成这项工作。工作还没有这样划分和分配开来的地方,每个人都是多面手,那么这些行业就还处在最粗野的状态。但是,虽然这本身也许并不是一个不值得考虑的话题,即问一问,纯粹哲学在其一切划分中是否要求有它自己特殊的人士,而下述情况是否就会改进这个博学的行当的整体,即当那些习惯于按照大众的口味在他们不熟悉的各种各样的关系方面将经验性的东西和理性的东西混在一起出售的人,他们自称为独立思想家,却把另外一些只配备有理性份额的人称之为钻牛角尖者,这时他们就会受到警告,说不要同时从事两种在处理方式上完全不同的职业,其中每项职业或许要求一种特殊的才能,而它们在一个人身上的结合只会产生出半瓶醋来:不过我在这里要问的只是,科学的本性是否要求任何时候都小心地把经验性的部分和理性的部分区分开来,并在本来意义上的(经验性的)物理学之前先讲自然的形而上学,而在实践的人类学之前则先讲道德的形而上学,这两种形而上学都必须与一切经验性的东西仔细撇清关系,以便知道纯粹理性在这两种情况下有可能做出多大的成就,以及它们本身将从何种源泉中汲取自己的这种先天的教导,此外,后一工作(杨云飞注:指道德形而上学之建立)是可以由各种道德教师(他们号称“匹夫”)来做呢,还是只能由一些受到这一使命感召的人来推动。

中山: 「哲学における分業の利点」
すべての職業、手工業、技術といったものにおいて、分業は大きな利益をもたらしてきた。一人ですべての作業をするのではなく、各人がそれぞれに処理方法の明確に異なる作業に専念することによって、それぞれの作業に卓越することができるし、さらにたやすく作業できるようになるからである。このように仕事を区別して分割しないと、一人で何でもやらねばならず、どんな職業もいまだに野蛮な状態とどまっていただろう。

(同じようにここで哲学について)次のような問題を考察してみるのは、それ自体、決して無意味なことではないだろう。(第一に)純粋哲学は、(論理学と
形而上学という)それぞれの部門において、特別な哲学者を必要とするのではないだろうか。(第二に)学問という職業の全体にとっては、処理方法がきわめて異なる二つの仕事に一人の哲学者が同時に携わるべきではないと警告するのが好ましいのではないだろうか。というのも、どちらの仕事にも固有の才能が必要だろうし、一人の人物がこれらの仕事に同時に携わると、へぼな学者が生まれるだけだろうからである。しかし現状では、世間の趣味にしたがって、経験的なものと合理的なものを自分でもよく理解できない雑多な比率で混ぜ合わせて売り捌くのをつねとする人々が、独自の思想家と自称し、一方では合理的な部分だけに専念する学者を能なしの学者と決めつけているのである。わたしが問いたいのは、次のようなことなのだ。哲学という学問の性格から考えてみれば、経験的な部分をつねに合理的な部分から慎重に峻別すべきではないだろうか。そしてほんらいの意味での(経験的な)自然哲学よりも自然の形而上学を優先し、実践的な人間学よりも道徳ジッテの形而上学を優先すべきではないいだろうか。自然の形而上学と道徳ジッテの形而上学からは、すべての経験的な要素を注意深くとり除くべきではないだろうか。そうすれば純粋な理性がこれらの形而上学においてどれほど多くのことを実現できるかが明らかになるだろうし、純粋理性がどのような源泉から、そのアプリオリな理論を汲みとっているかが明らかになるだろう。そうすれば道徳ジッテの形而上学の仕事が、すべての道徳ジッテの教師たち(その数は大勢である【中山元注:クリュシッポス『初期ストア派断片集 2』水落健治、山口義久訳、京都大学学術出版会、四〇ページ)によって担われたとしても、その仕事を天職と感じている少数の学者によって担われたとしても、問題ではないのである。

Kant: Alle Gewerbe, Handwerke und Künste, haben durch die Verteilung der Arbeiten gewonnen, da nämlich nicht einer alles macht, sondernjeder sich auf gewisse Arbeit, die sich, ihrer Behandlungsweise nach, von andern merklich unterscheidet, einschränkt, um sie in der größten Vollkommenheit und mit mehrerer Leichtigkeit leisten zu können. Wo die Arbeiten so
nicht unterschieden und verteilt werden, wo jeder ein Tausendkünstler ist, da liegen die Gewerbe noch in der größtenBarbarei. Aber ob dieses zwar für sichein der Erwägung nicht unwürdiges Objekt wäre, zu fragen: ob die reine Philosophie in allen ihren Teilen nicht ihren besondern Mann erheische, und es umdas Ganze des gelehrten Gewerbes nicht besser stehen würde, wenn die, so das Empirische mit demRationalen, dem Geschmacke des Publikums gemäß, nach allerlei ihnen selbst unbekannten Verhältnissen gemischt, zu verkaufen gewohnt sind, die sich Selbstdenker, andere aber, die den bloß rationalen Teil zubereiten, Grübler nennen, gewarnt würden, nicht zwei Geschäfte zugleich zu treiben, die in der Art, sie zu behandeln, gar sehr verschieden sind, zu deren jedem vielleicht ein besonderes Talent erfodert wird, und deren Verbindung in einer Person nur Stümper hervorbringt: so frage ich hier doch nur, ob nicht die Natur der Wissenschaft es erfodere, den empirischen von dem rationalen Teil jederzeit sorgfältig abzuson-dern, und vor der eigentlichen (empirischen) Physik eine Metaphysik der Natur, vor der praktischen Anthropologie aber eine Metaphysik der Sitten voranzuschicken, die von allemEmpirischen sorgfältig gesäubert sein müßte, um zu wissen, wie viel reine Vernunft in beiden Fällen leisten könne, und aus welchen Quellen sie selbst dieseihreBelehrung a priori schöpfe, es mag übrigens das letztere Geschäfte von allen Sittenlehrern (deren Name Legion heißt), oder nur voneinigen, die Beruf dazufühlen, getriebenwerden.

评: 我依稀还记得在一个下午,当我第一次读到这段文字的时候,难受得不知道该说什么好。我也是第一次发现,原来为了追求准确,翻译出来的文字可以差劲到什么程度。基本上杨云飞的翻译无法看成是现代汉语的表达,但确实也尽可能还原了原文的含义。类似“但是,虽然这本身也许并不是一个不值得考虑的话题”这种句子,不读个几遍绕个几圈是没法搞明白的。康德这里主要讲了几件事情:首先说明为什么会形成劳动分工,理由很简单,因为效率——“最完善和更轻松地完成工作”,在这个基础上,康德要讨论纯粹哲学是不是也需要分工。前文里,康德把哲学划为各个领域,其实都是为这里做铺垫。因此这一段核心的主题在于发问,这个问题是“是否应该区分一个学科里经验性的部分和理性的部分,并且让这两个部分各自形成新的学科?”在康德这里,物理学分成了经验的物理学和自然的形而上学,关于实践的学科则分为实践人类学与道德形而上学。最后,对这种纯粹学科的研究应该什么人来做,康德提出了一些疑问。
杨云飞先生大概是觉得康德原文确实挺绕,试图用一些独到的翻译方便读者理解,比如Legion被翻译成了“匹夫”。但这种做法不仅没有便于理解,反而更加让人困惑了。Legion在德文里的含义是罗马的一个军事单位,可以翻译成“军团”。这里康德实际上运用了一些典故,关于这个典故,我之后会写一篇文章详细叙述。
如果说杨云飞先生的翻译是试图锦上添花而不成,那中山元的翻译简直就是灾难。首先是强行分段,这个问题之前已经出现过,之后还会继续出现。为了整理清楚康德这里说的各个部分,他像做笔记一样给每个部分做了注释。其次大量使用だろう,显得康德的语气更加可疑,而且Legion他翻译成了“その数は大勢である”,直接忽视原文的deren Name和heißt,这可真是“天才”翻译,也让我进一步怀疑中山元的德文水平。不过我这里注意到中山元给了一个注,表示自己这里的翻译参考了水落健治和山口義久翻译的一本记录斯多亚学派著作的书《初期ストア派断片集》,有空我会找来看看。

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(第二节 · 完)