鄙人研究康德已颇有时日,然学艺仍不足为精,远甚于诸位康德专家。

偶得中山元なかやま げん所译《道德形而上学奠基》(后称《奠基》)一书,阅读之后,深感中日译本之不同,遂作此文。

对照所选中译本为人民出版社杨云飞译本,日文来自于光文社古典新译文库中山元译本,德文原文来自Deutsche Digitale Bibliothek。文中对照依中、日、德文顺序并排。在对比后有鄙人所作之评注。鄙人才学有限,所作评论难免有失偏颇,且全部文段均为手工录入,亦难免有误,仅供诸位参考。

限于版权问题,本文并非句句对照,盖选用部分章节文段,能凸显中日对康德原文对待之不同即可。

序毕。

道德形而上学奠基

道徳形而上学の基礎づけ

Grundlegung zur Metaphysik der Sitten

前言

序文

Vorrede

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杨: 古希腊哲学分成三门科学:物理学、伦理学和逻辑学。这个分类是和事情的本性完全适合的,而且仅仅除了对这分类的原则也许有所增加,以便一方面保证这种划分的完备性,另一方面能正确地规定那些必要的分支以外,人们不需要对此加以任何改进。

中山:「哲学の三分野」
古代ギリシアの哲学は、三つの学問分野に分けられていたーー自然哲学、倫理学、論理学である。この分野別の分類は、哲学の本性にまったくふさわしいものであり、分類の原理を付け加えることのほかには、改善すべきところはまったくない言ってよい。この分類の原理を付け加えれば、哲学がさらに完璧なものになるのは確実であるし、「原理に基づいて」それぞれの分野をさらに細かく分類するという必要な作業を、正しく規定することができる。

Kant: Die alte griechische Philosophie teilte sich in drei Wissenschaften ab: Die Physik, die Ethik, und die Logik. Diese Einteilung ist der Natur der Sache vollkommen angemessen, und man hat an ihr nichts zu verbessern, als etwa nur das Prinzip derselben hinzu zu tun, um sich auf solche Art teils ihrer Vollständigkeit zu versichern, teils die notwendigen Unterabteilungen richtig bestimmen zu können.

评: 中山元给康德的每一段都拟了一个总结性标题,本段是“哲学の三分野”,之后中山元所设的标题都在日文部分开头以「」符号的形式给出。这段是序言开头的第一段,也是康德著名的古希腊哲学分科。这一划分是有哲学史背景的。
仔细研究可以发现,中山元的德文水平似乎可疑。Die Physik被杨云飞译为物理学可以认为是正确的,因为这里对应到康德前文说的Wissenschaften,但中山元把Wissenschaften翻译成了“学問”,“学問”这个词的含义不如“科学”这个词狭窄,而且日语是有“物理学ぶつりがく”这个词的,所以果然中山元先给自己立了个错误的路标,然后闷头走了下去,把Die Physik译成了“自然哲学しぜんてつがく”。
至于Diese Einteilung ist der Natur der Sache vollkommen angemessen…一句,杨云飞译作“这个分类是和事情的本性完全适合的”并不算错,只是颇为绕口,但中山元不知道哪里冒出来一个“哲学の本性”就有点贻笑大方了。

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杨: 所有的理性知识要么是质料的,即考察某一个客体;要么是形式的,即仅仅探究知性和理性自身的形式,以及一般思维的普遍规则,而不涉及各种客体的区别。形式的哲学就叫做逻辑学,而处理确定的对象和这些对象所遵守的规律(法则)的质料的哲学,又有两方面。因为这些规律(法则)要么是自然的规律,要么是自由的法则。关于第一种规律的科学称为物理学,关于第二种规律的科学是伦理学;前者也称为自然学说,后者称为道德学说。

中山:「実質的な認識と形式的な認識」
すべての理性認識は、実質的な認識として、ある対象を考察するものであるか、それとも形式的な認識として、対象の違いにかかわりなく、知性(=悟性)と理性そのものの形式だけを、そして思考一般の普遍的な規則を考察するものであるか、そのいずればである。(形式的な理性認識である)形式的な哲学は論理学と呼ばれる。他方で(実質的な理性認識である)実質的な哲学は、特定の対象にかかわり、こうした対象がしたがっている法則を検討する。この法則には二種類あるーー自然の法則であるか、自由の法則であるかである。そこでこの実質的な哲学もに種類に分類される。自然の法則を考察する哲学は自然哲学であり、自由の法則を考察する哲学は倫理学である。自然哲学は自然学と呼ばれ、倫理学エーティック道徳学ジッテンレーレともよばれる。

Kant: Alle Vernunfterkenntnis ist entweder material, und betrachtet irgend ein Objekt; oder formal, und beschäftigt sich bloß mit der Form des Verstandes und der Vernunft selbst, und den allgemeinen Regeln des Denkens überhaupt, ohne Unterschied der Objekte. Die formale Philosophie heißt Logik, die materiale aber, welche es mit bestimmten Gegenständen und den Gesetzen zu tun hat, denen sie unterworfen sind, ist wiederum zwiefach. Denn diese Gesetze sind entweder Gesetze der Natur, oder der Freiheit. Die Wissenschaft von der ersten heißt Physik, die der andern ist Ethik; jene wird auch Naturlehre, diese Sittenlehre genannt.

评: 划分了哲学的三领域后,康德接下来做的就是划分理性知识,这次划分的依据是理性知识所考察的东西,即要么是质料的,有确定客体的,要么是形式的,即考察理性自身的。总的来说,杨云飞的翻译更加谨慎,康德运用了Gesetze的多义,杨云飞宁愿把两个含义都写出来也不肯找一个汉语词来概括,想必他这里纠结了很久。而中山元译为“法則”,也没有给注释,虽然不算错,也很难说草率,只是终究不如杨云飞的严谨。
这里我们也能看到,中山元继续坚持把Physik译作自然哲学。其实单看Die formale Philosophie heißt Logik这一句,会感觉他这样翻译似乎也没有错,因为康德似乎说的是Philosophie,可是后面康德又白纸黑字写着Wissenschaft……
我不太理解给“道徳学”标注“ジッテンレーレ”的意义,这个德文是Sittenlehre,但学过德文的人不需要这样标注,没学过德文的人也看不懂是什么东西。明明直接标注为“道徳学Sittenlehre”就很好。
在一些重要名词的处理上也存在有趣的不同。中山元给知性标注为悟性,乍看很奇怪,但根据我的研究,他之前的日本译者将Verstand译成了悟性,此处似乎是为了对应到日本康德学界的某种翻译传统。
另外中山元对原文的语序做了一些改变,似乎是为了更好地适应日语的表达。杨云飞则宁愿选择拗口,也不肯破坏段落的顺序。很难说哪种更好。这种处理在中山元后面的翻译中随处可见。

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杨: 逻辑不能有经验性的部分,亦即不能有这样一个部分,在其中思维的普遍必然的规律建立在来自经验的根据之上;因为否则它就不是逻辑了,亦即不是知性或理性的、对所有思维有效并且必须被演证的法规了。相反,自然的人世智慧和道德的人世智慧一样,每一个都能有自己的经验性的部分,因为前者必须对作为经验对象的自然规定其规律,而后者,必须对人在受自然刺激时的意志规定其规律,第一类规律是作为万物据以发生的规律,第二类规律则是作为万物应当据以发生的规律,但仍要考虑到那些经常令它不发生的条件。

中山:「三つの学の任務」
論理学には、経験的な部分を含めることはできない。思考の普遍的で必然的な(論理学の)法則は、経験によってうまれた根拠に基づくことはできないからである。経験的な根拠に基づいた学であれば、それは論理学ではないだろう。論理学は知性および理性のための基准カノンとして、すべての思考に妥当するものであり、すべての思考において証明されねばならないものだからである。
ところが世界についての知ヴェルトヴァイスハイト(=哲学)である自然哲学と道徳ジットリヒ哲学は、それぞれの学にふさわしい経験的な部分をもつことができる。自然哲学は経験の対象である自然についての法則を規定しなければならないし、道徳哲学は自然によって触発される人間の(自由な)意志の法則を規定しなければならないからである。自然哲学が規定する法則とは、すべてのものがそれにしたがって生起するような法則である。道徳哲学が規定する法則もまた、すべてのものがそれにしたがって生起しないこともありうるのであり、その条件についても考察する。

Kant: Die Logik kann keinen empirischen Teil haben, d.i. einen solchen, da die allgemeinen und notwendigen Gesetze des Denkens auf Gründen beruheten, die von der Erfahrung hergenommen wären; denn sonst wäre sie nicht Logik, d.i. ein Kanon für den Verstand, oder die Vernunft, der bei allem Denken gilt und demonstriert werden muß. Dagegen können, sowohl die natürliche, als sittliche Weltweisheit, jede ihren empirischen Teil haben, weil jene der Natur, als einem Gegenstande der Erfahrung, diese aber dem Willen des Menschen, so fern er durch die Natur affiziert wird, ihre Gesetze bestimmen muß, die erstern zwar als Gesetze, nach denen alles geschieht, die zweiten als solche, nach denen alles geschehen soll, aber doch auch mit Erwägung der Bedingungen, unter denen es öfters nicht geschieht.

评: 这是康德整本书第一个让人晕头晕脑的段落,正如邓晓芒所说,康德的撰文是“笨拙”的。本段主要是把一些概念给搞清楚。逻辑本身不能包含经验性的东西,否则逻辑自己变得不纯粹,也就不可能是普世的思维法则。而所谓的智慧(Weltweisheit)这个东西,无论是自然的智慧还是道德的智慧,本身都是有经验性的。因为自然的智慧研究的自然本身就是个经验的东西,而道德的智慧研究的是人受自然刺激时的意志问题(又是“自然”和又是“刺激”,听起来就非常“经验性”)。
最后这句,我个人以为康德这里隐含了道德语言意义上的“是”与“应当”的区分。
这是康德全书第一次提到意志(Wille)概念。杨云飞和中山元都翻译为意志いし
杨云飞自然是恪守康德的语序,虽然看起来都是汉字,但初看一遍确实不太看得懂。面对这种长句,中山元更多是意译。注意上面的日文部分文段分成两段并不是我的录入错误,而是中山元本来的安排。为什么要这样做呢?我只能推测是因为中山元认为这里康德讲的是两件事情,区分开来或许有助于读者的理解。中山元不仅改变了语序,把段落结构也改变了,很难说这样的做法是不是合适……
很奇怪,中山元标注“世界についての知”是哲学。我认为中山元不仅对科学有误解,对哲学看来也有误解。

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(第一节 · 完)

注:本文将持续更新于此博客,约两周一更。